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2007年08月15日

【 Site of Resistance::「抵抗の場へ」を読み終えて 】

正直なところ対談集を読んで面白かったと思ったことなどほとんどないし、そんな理由からか、自らすすんで手にすることもなかった。だからどういう理由でこの本が手元にきたのか、それすら定かではないのだが、おそらくどこかで書評で読み、それが琴線に触れたのか、もしくはAmazonあたりで「お奨め」されて、それをポチリとクリックしたか、まぁそのあたりだと思う。

そうそうAmazonのお奨めと言えばSoftware Design誌の8月号から「レコメンドエンジン開発教室」という連載が始まっている。Amazonで利用されているcollaborative filteringなど、その実装に関する詳細を基礎から解説してくれているので、興味のある方は時間をみつけて読んでみるのも良いかも知れない。

話をもとにもどそう、お題目は「抵抗の場へ」だ。この本が手元にきてから1ヶ月程度だと思うが、その間にいろんなことを考えながら読み進めた。これもいつものパターンなのだが、1冊の本に集中しているのではなく、他の本も平行して読んでいるので、別にダラダラと読んでいたわけではないし、手を抜いて読んでいたわけでもない。ただ、あれこれと思いを巡らせながら読むには、この1ヶ月というのは丁度よいペースだったと思う。ある時は風呂の中で、あるときは山手線の中で、ミヨシ氏の言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら色々考えることができた。時には、本を手にとることとなく、机の上に放り出したままで表紙をながめながら先に読んだ内容を思い返してみたりもした。

この本はAs We Saw ThemやOff Centerの著者であるマサオ・ミヨシ氏と、ニューヨーク大学の准教授である吉本光宏氏との対談形式になっているのだが、サブタイトルの「あらゆる境界を越えるために マサオ・ミヨシ自らを語る」のとおりに、「全体」を見つめながら我々が次になにをするべきか、私たち自身が置かれている現状をどのように理解し、行動をとるためにはそれをらをどう見極めていくべきなのかを、ゆっくりと紐解くように私たちに語りかけてくれている。それでいて面白いことにと言うべきか、当然に意識されてのことだと思うが「次の時代」的な言葉も登場しない。そしてそのことによって、すでにそういう概念すら陳腐なのだと思わせる。

読み手がどの位置に立ってこの本を読むかで受け取り方が大きく変わってくるのだろうけれど、個のありかたと全体との関係を考える上では、大きな意味を持つ1冊だと思う。対談形式をとることで難しい語彙も省かれ、ミヨシ氏の考え方が簡潔に伝わってくる。

大学教育や国民国家の機能不全を、時に辛辣な言葉で訴えかけている氏の姿はから伝わってくるのは愛だ。これらの言葉は、一個人として「人間」を愛しているからこそ、人間の「あり方」を真剣に考えているからこそ生まれてくるものだ。人間が人間だけでなく全体を見つめて行動しなければいけないということからは、当然に「人間が」という主語を削り取ってしまうことはできない、そして、だからといって、人間がいなくとも全体が成り立たないわけではないという皮肉も、さりげなく伝わってくる。necrosisかapoptosisか、いずれかを選択しなければならないのだろうけれど、選択肢を持っているということ自体の意味をもう少し考えてみる時期にきているのだと氏が気がついているからこそ、今、こうしてこの本がこの形で世におくりだされたのだと思う。

少し引用しよう
僕には単に「人間」だけで充分なのです。
それ以外のサブ・カテゴリーは、法律と経済学意外では否定したいのです。つまり、知識があろうがなかろうが、誰も皆、自分の生活を真剣に考えるべきであり、そして何か挑むものがあるなら、挑むべきであると。

「知識」はしばしば全く逆の働きをするのです。知識人は僕が持ち込もうとしているような類いの混乱を抑えるように教育され、また、教育しています。これまでの議論で僕は「文化」と言う言葉も使いました。この「文化」と言う言葉は、知識人として、この特権階級の一員としt自分を保護し「知識」を発達させます。探求するのではなく、「知識」とこの「文化」を護るということを意味しています。そして一度この「文化」というものを受け入れると、そのとたんにそれはいかがわしくなるのです。だから人は文明化されていない。非知識の人々を除外しようとする。

僕はそれを危険だと言いました。「知識人」は常に「非知識人」、「無知人」を意識しています。そしてそれと一緒にされることを避けます。

僕はこの無知の排除が好きではないのです。僕は「無知人」と呼ばれる人など実際はいないと考えます。すべての人々は自分なりの知性を持つのです。それは非常に重要なものたりうるのです。そして、僕たちはすべての人々から学ぶのです。その一方で、知識人はどうしたものか自分たちは特別なカテゴリーに属すと考えています。彼らは苦労してそのカテゴリーに入れてもらってのであり、一度そのカテゴリーに入ると、知識人になることができ、何を言おうとその発言はどういうわけか価値をもつことになります。
まったく目を背けず、ここまで辛辣にこの事実を書けるのは、やはりその現場で挑み続けてきたからからなのだろう。「抵抗の場へ」の「抵抗」とは挑むということであると、改めて認識させられた。

あらゆるフリクションはストレスも生みだすが成長も促す。抵抗も摩擦もない場は、言い換えれば死に絶えたも同じことなのだ。そのこと自体を知り、そして知っている以上は目を背けるべきではない、いや、もとい、そこで一歩踏み出すべくが人間の人間たる起源であり、そのことを改めて課題として提起しているところに、私は氏の底知れぬ人間への「愛」を感じた。

読み終えた後、「こんな風に全体的な視点から世界を考えていく人たちが増えれば、まだまだ人間の可能性は残されているのに…」と素直に思えたのは、やはり氏の持つ熱意と積極性に、偽りが微塵も隠されていないからなのだろう。

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|by Nagarazoku : 13:15コメント (0)トラックバック (0)

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