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2006年11月12日
【
死ぬ権利について日々思うことを少し… 】
「ヲマエにナニが判るか!」とか言われてしまいそうですが、メディアをブロックしていてもさすがにこれだけ毎日「自殺」と言うキーワードが目や耳から飛び込んでくるので、やはり自分の持っている考え方の再確認として書いておきたいな、っと。
ずいぶん前のエントリでも少し触れましたが、私個人としては自殺についてなんら否定的な考え方を持っていません -- その行為に至った者の年齢に関係なく、その行為についてなんら否定はしません。私が自殺というものをそんな風にとらえているのは、生きることについて「何ら義務はない」という考えを持っているからだと思います。
それともう一つ、その行為自体が人間を人間たらしめている代表的な行為だと、そんな風に考えているからでもあります。人がその行為に至るのは、レミングの群れのような種の維持のための行動ではなく、その年齢の如何にかかわらず、考える葦としての人間要素が深く関わっているのだと私はそう思っています。しかるに、考えた末の選択肢の一つとしての自殺については何ら否定する気にはなれないのです。もっと言い切ってしまえば、人間には「死ぬ権利」があると、私自身はそう思っています。
そしてこの権利は、国家だとか社会だとか、そういう「しくみ」の秩序を維持するための規範や制約となっている憲法を含む法だとかで定義付けされ、保障されているような権利以前に存在する、人間社会未満、動物社会以上のレイヤの中に存在する極めて根本的な権利だと、常々そう思っています。このような話題についてはエセーの中でモンティーニュが語っているように、大昔から当然に語りつかれていることですし。
「人間は自分で檻をつくって、自分からその中に入った生き物だ」とよく揶揄されるように、理性を持って、人間という生き物は異様に発達した大脳新皮質や前頭葉が判断した概念の中で、動物社会以上に秩序立てた人間社会という「不完全な仕組」を作り、その中で暮らしています。人間として生まれて暮らす以上、この仕組みの中から抜け出すことは、基本的にはできないはずです。
でも、抜け出したくならない保証はどこにもないはずです。
そして抜け出してはいけないという「絶対」もどこにもないはずです。
生きる権利があるのと同様に、死ぬ権利も同様にあるはずです。
死ぬ義務が無いのと同様に、生きる義務も同様に無いはずです。
自殺と言うコトバを耳にする度、私が日々思うのは、この「死ぬ権利」と言うことです。「命を粗末にすべきでない」と言うのは当然のことであると考えるのと同じに、そのことが「宗教や社会における秩序維持のために過大解釈されてはいないか?」と、同じ重さで考えているのです。極端すぎると言われてしまえば、それまでのことなのですが。
先の「人間は自分で檻をつくって…」と言う皮肉は、その「不完全な仕組」の中で、そしてその子エレメントとしての「不完全な組織」 -- たとえば国家だとか地方自治体だとか会社だとか学校だと -- の中で暮らす人々に、その最小単位のエレメント/要素としての辛さが言せた言葉なのでしょう。
内国の子供の自殺をこれだけ大きく取り上げるメディアも、日本の物質的/経済的な豊かさの影で犠牲になっている外国、特に発展途上国で日々に苦しんでいる子供達の生活はなんら無頓着です(上辺だけは取り上げていますが)。これを例に取るわけではありませんが、自己の利を守るためなら、他人の損は当然とするのが人間社会のひとつの仕組みであるとするのであれば、人間の社会というものはそのくらい不完全で、矛盾だらけの檻だと言うことなのでしょう。
拡大解釈かも知れませんが、不完全さを継承した組織と言うエレメントの中でおこる苛めの問題も、その本質はそのあたりにあるのかも知れないと思えなくもありません。抜け出したくなる気持ちも判らなくもありません。思春期や、その少し前の無垢な心が人間という生き物のそういった面に触れたり、そいう本質を垣間見たりしたとき、その心がどのように判断するかは想像に難くないと思います。
もしも自殺を考えている人に言葉をかけるとすれば、私の場合は一言、「そんなん、何とかなるよ」でしょうか。
事実、私も私自身にそうやって言葉をかけて一歩ずつここまで歩いてきたような気がしますし。とりたてて才もなく、裕福でもない家庭に生まれて、とっぴな言動が多かったがためにどちらかと言えば集団から疎外されて子供の頃を過ごした私は、いつも自分にそんな風に言い聞かせていたような気がします。「所詮はみんな矛盾した檻の中で生きているのだから、そんなん、そのうち何とかなるよ」と。
それから疎外されることで知った「痛み」も、今となっては案外無駄ではなかったなと思えたりもします。これは、その痛みを知っている人にしか判らないことですし。そういう意味では疎外され続けた小中学生時代からも、案外に学ぶものがあったよね、っと。
生きる義務なんて無いと思います。矛盾した檻の中で生きるのが義務だなんて言う方がなんだか変ですし。矛盾した仕組みの中に生きているのは私もあなたも、そして他のニンゲン様もみんな同じことなのですし、みんな様々な局面で大なり小なり疎外感を感じたり、実際に疎外されたり不当に扱われたりしているのは事実なのです。
人には死ぬ権利が当然にあると思います。でもその権利を行使する前に、自分を疎外したその矛盾だらけの仕組みについて他の方法で「物申す」こともできるのだと、そんな風に考えて別の方向へ一歩踏み出してみるのも良いのではないでしょうか。
たぶんそのあたりに生きることと言うものの「尊さ」が隠されているような、そんな気がします。
P.S.
生きることに関する義務はないと思いますが、生きることに価値はあると、そんな風にも思っています。
その価値は他人に評価してもらうようなものではなく、自分で見出し、「感じる」ものだとも思っています。その「生きることの価値」を見出そうとする姿勢こそが、逆説的ではあるもののひょっとすると生きていることの原動力、あるいは意味なのかなとも、思ったりするのです。私自身、「生き難いなぁ」とは思い続けていた時期が長かったものの、不思議と自殺を考えなかったのは、恐らくそう言う部分を追求したい貪欲さがあったからなのかも知れませんが…。
|by Nagarazoku : 08:37|コメント (0)|トラックバック (0)|
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