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2006年09月09日
【
見出しこそこそ違えど 】
来週号の日経ビジネスと今週号のNewsweek日本語版の「見出し」が微妙にシンクロしてて面白かったので1枚撮ってみた。見出しに並ぶ文字こそこそ違えど、要約すれば移民政策に対する政府の対応の遅れを指摘している点で、中身は似たようなもの。現実を知ってる人は、あえて買ってまで読むような内容でもボリュームでもない。そんなカネがあるなら仕事帰りのハッピーアワーでサービスの3品を突っきつつ、生ビールでも飲んでる方がよほど経済効果がありそうだし。どうせ買うなら、週が明けてから、道端でオッチャン達が100円で売ってる「回収誌」を買ってあげる方が賢明、っと言う程度の内容(ライターさんも編集さんも、ボロカスに書いてごめんネ)。
まぁ、こういう事態は程度の大小こそあれいつも地に這いつくばって生活している庶民の方が身をもって実感していることなので、今更感が無いわけでもないだが。ちょこちょこと取り上げてられるようになって1~2年。実際、当事者達にとってはもう10年以上前からの問題なのだが。
思えば、私が似非学生でバイトしてた頃(20年以上前だな…)から、同じバイト先に謎の中国人や、やたらに人懐っこいブラジル人なんてのは普通に身近な存在だったし、「オマエは上方演芸の漫才師か!」と言うくらい流暢な関西弁を操るアフリカ系アメリカ人も居た。
国と言う単位そのものの存在とはなんぞやと問えば、国というものが当然に一国だけで成立っているものではないと言うことなど、深く考えずとも誰にでもわかること。国摂り物語だけで話は完結しておらず、確立した単位である「国=社会」がそこで生活を営む人々の道具となり、時代を越えて機能することが求められているのは言うまでもない。
だからと言って、人間そのものが持つ「生きる」と言う自由までも、国と言う単位に縛られてしまうのは当然におかしなことだと思うし、いわゆる「自分達で作った社会と言う檻の中に…」的な論議になってしまいそうだし。
日本政府の対応が遅れているのは毎度のことだが、だからと言って120年ほど前にあった日本からの移民ラッシュの時に受け入れ側となった各国の対応はどうだったのか、移り住んだ国で生活を営んだ日本人の実際はどうだったのかを問えば、今の日本における外国人の労働条件が「極めて」悪いとは思えないし(あくまで文献を紐解いて知っている事実と、自分が日々身近で見ている現実を比較してだが)。良くないなどと言い出せば、東欧から人が流れ込んでいる欧州だってそうだし、メキシコからの不法入国が止まない米国だってそうだし、そして各国がその労働力に依存しているのも事実だから。
それに、仕事するだけの価値が無い国と外国人に判断されたら、それこそその国もそれまでだし。事実、あの亀山工場の事例などを聞けば、「いよいよ日本も境界線に近づきつつあるんだなぁ」と実感せざるを得ない。
国という人間が生み出した仕組みのライフサイクルを考えれば、そろそろそれ自体が役にに立たなくなってきているのかも知れないし。グローバル化やフラット化や「国2.0」じゃないけれど、これからはそういう単位自体が古臭い存在になっていくのかもしれない(と言うか、それを渇望しているのだが)。
国籍なんか所詮政治的なものだと(言いすぎかな?)もとより引き算してるし、肌の色や喋る言葉なんぞで区別されるなんてまっぴら御免というのが本音。意思疎通が容易で、居心地の良いコミュニティにとどまるというのは自由意志だけど。次代の到来は、時代の終焉にあらず、だし。こういうのも新たな胎動だとおもえば…、ね。

|by Nagarazoku : 00:15|コメント (0)|トラックバック (0)|
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