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2006年03月10日

【 ポパー型生物の… 】

事務所の事実上の親会社の社内基幹ネットワークをメタルからファイバに挿げ替えることになり、無い知恵を貸せと言うので大阪へ。知恵だけ貸せば良いのかと思えば、結局は段取り一式背負い込むコトに。

貸しビルならいっそのコト既存ネットワークを捨てて新規に数フロアなり、ビル一棟を借りて、そこに全てを新設してしまえば良いのだが、残念ながら親会社は中途半端に持ちビル。貧乏臭いとは言わないが、無駄に資産を持ちたがる弱小企業の見栄っ張り思想のマイナス面が、こういう場面でモロに露呈する。

そんなワケで、日常業務を止めるワケにはゆかないので既存のネットワークを生かしつつ、基幹を新設し、新しい動脈を確保したあとで各ノードを移すという、合わせ技一本の仕事になってしまった。業者の手配、スケジュール調整、代替回線の確保からメディア・コンバータやらスイッチの選定に至るまで、アレやコレやで問題山積。とは言いつつも、この際だから、以前から企てていた外部へのマルチ・ホーミング費用を予算に乗せてしまった。今後の導入事例として使わせていただく。転んでもタダでは起きない性格と言おうか、我ながらエエ根性してると言おうか…。

ザザっと打ち合わせを終わらせて、心斎橋「そごう」まで徒歩。

新しくなったこの「そごう」本店には何度か足を運んでいるが、ここは天井が高くてキモチが良い。11階のベル ロワイヤルで用事を済ませ、今度は心斎橋筋を北へ。

大阪は景気が今ひとつだと言われていたが、この界隈にある糸辺の商いの活況を見る限りでは、以前よりは少しはマシになったのかと言う印象。ここを通る度に実感するのはバイイング・パワーの主導権は女性だというコト。熱気以上に殺気を感じる。それでも、肌着屋が下着屋に変って、少しは華やいだ雰囲気にはなったが…。これも時代の移り変わり。

本町まで歩いて、そこから地下鉄中央線で大阪港駅まで。途中目に付くのは、大阪市が2008年のオリンピック招致を目指していた頃の「負の遺産」の数々。よくもまぁこれだけ血税を湯水のごとく使ってハコモノを作れたものだ。

大阪港駅での改札を出て、天保山とは反対の方向へ。余談になるが、この天保山、海抜4.5m程の築山だと言うのに、立派に「山」として地図に記載されている。高さは日本で2番目に低いとされている。

話を元にもどして、天保山とは反対の方向へ。

煉瓦造りの古い倉庫が並ぶ方へ。思えば、昔サラリーマンをしてた頃は、夜中にこの界隈をよく車や単車で流した。別に不良青年とか言うのではなく、書き上げたプログラムのコンパイルや、エラーログを吐き出させたりするために実ラインでの使用を想定したバッチの検証動作をせているとどうしても数時間はかかってしまうので、時間を潰すためにそういうコトになってしまっただけなのだが。思えば、牧歌的な時代だったと言おうか、あの頃のイエロー・ケーブルは何処へ消えたと言おうか、なんでも一からやらねばならない時代だったと言おうか…。

話がまた脇へ逸れた。

とにかく、その煉瓦造りの倉庫街の横手に大阪港CASOと言うギャラリーがある。ギャラリーがあると書いたが、既に実質的に大阪に済んでいない私自身はその存在など知る由もなく、心の中で「いつの間にこんなモノをこんな辺鄙な場所に建てたのか」と思う。

実は、写真にかなりマジメに取り組んでいる悪友が大阪に居る。その彼が通っている写真表現大学の終了展がそのギャラリーであると言うので、そんな辺鄙な場所へ足を向けたのだ。「写真でも観た後、酒でも呑むか」と言うのが本心だったどうかについては、とりあえずこの場では触れないコトにしよう。

そして、件の展覧会場へ。いろんな写真を見ているうちに、何をもって「その作品を能しとするのかは、やっぱり泥沼の世界だな」と、絵を描いてた頃と同じ疑問がまたしてもアタマを擡げてきた。言い切ってしまえば、自己の作品は自己以外理解できない。そんなコト、ここに書くまでもなく当たり前のコトで、他人に「理解される」と言う表現や「広く受け入れられる」と言う表現を目にすることもあるが、それは大なり小なり誤解されていることに他ならない。

作品が一人歩きを始めた後、作り手が取れる立場は、自己の視点に固執し外界を気にせず船を進めるか、誤解であれなんであれ、「評」が自己の内外を問わずポジティブなモメントを生み出すものであれば「受け入れても良い」と言う線を引き、潮の流れに乗ってしまうか。結局はそれだけのこと。

創作や想像や創像は、複合化だと理解している。所詮、自己の感覚器を通し、知覚し、脳の中でまがりなりも複合化して「感じる」ことのできるもの以外にはなんら芸術性を見出すことはできないのだし。その感性の個体差や、その支持数のマジョリティ/マイノリティ的な側面で全てを評価してしまうのも、そして評価しないのもナンセンスな話なんだが。

自己のスタンスを決めてファインダを覗き込み、シャッターを切る瞬間にその人が感じられたものを少しでも感じられたらと、そういう気持ちで素直に作品を観てきた。こらえて、感じて、待って、受け止めて、惹き出して、被写体と人間が共鳴した瞬間を、その創像の瞬間を、少しでも感じられたらなと、そういう想いだ。

私達が言う芸術の最終形は参加することで、その目的を達せられるのではないかと思う。そこに在るべきものをどう感じ「る」か、何も感じ「ない」か、感じ「たい」と思うか、感じ「よう」とするか。立ち位置がどうであれ、それが目的とする作品をそ肯定するものであっても、たとえそれが否定するものであっても、参加していることに変りはない。変幻自在の人間の感性を目の前に、結局それはグレゴリー型生物的な行為ではなく、ポパー型生物の本能なのだなと、他愛もないことを考えてみた。

|by Nagarazoku : 00:00コメント (0)トラックバック (0)

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