≪ 我が家の煮込みラーメン |メインページへ戻る| 中骨がっ、中骨が… ≫
2005年12月07日
【
「障害も個性」に違和感 】
お昼の休憩中にオンラインの毎日新聞を読んでて、次のような文章にぶつかった。メディアが飛びついて騒いでいる福岡の事件に関する記事だったのだが…
福岡市自閉症児者親の会の伊丹健次郎会長は、母親がドリルなどを買って読み書き、計算を教えていた点を挙げ、「二女への愛情はあったのでは」と思いやった。同会会員の中には、子供の障害を苦に無理心中を考えた人もいる。「母親が引っ込み思案だったのかもしれない。『障害も個性』と言える社会になれば、こんな悲惨なことも起きなかったのではないか」と伊丹会長は指摘する。
黙って読めばどうってコトもないし、別に伊丹氏も意識して発言したのではないと思うのだが、「『障害も個性』と言える社会になれば」と言う部分が琴線に触れてしまった(もとより、この事件についてこのエントリで言及する気はないので、念のため)。
「障害も個性」というコトバがこうして「理解を示す」的なキーワードで使われ続けているのを見ると、なんとも情けなくなる。
パラドクス的な発想かも知れないが、障害を障害たらしめているのは、紛れもなく社会そのもので、『障害も個性』と言える社会とは、障害者に健常者とは違うというラベルを貼るもの以外のなにものでもないと、アタシにはそんな風に思える。
生きてゆくタメに、そんなラベルは必要ない。
障害は個性ではない。
マジョリティとしての健常者が「一般的」として生活することを前提に構成された社会は、形式的にも実質的にもマイノリティとしての障害者にとっては、一般的に生活はし辛い。多かれ少なかれ何等かのサポートを必要とする。
同じ基盤、ここで言う社会を利用して共に生活をするのであれば、その基盤はマジョリティが勝手に自分たちの「一般」を前提にして作り上げたものなのだから、マイノリティが不利益を得ないように常に積極性を持って「気を配る」ことが必要なのだと、そう信じて疑わない。
そして、その積極性は言葉に出すようなことではなく、当然のごとく自然にそうあるべき、そう行動されるべきなのだと思う。それが出来ないと言うことは、マジョリティ側の意識の中に何かが欠けているとしか言いようが無い。
ニンゲン様と言うものは、そこにあるものを在るがままにとらえ、必要であれば黙って手を差し伸べると言う共同生活の基本すら能書きを謳わなければできないのか。
「『障害も個性』と言える社会」と言うコトバを目にしたとき、そんな風に感じてしまった。
P.S.
もちろん、今回の事件を社会の所為にするにしてもこんなキーワードなどは要らないコトは言うまでもない。
|by Nagarazoku : 14:35|コメント (0)|トラックバック (0)|
トラックバック・スパム対策のため、このBLOGへのリンクを持たないページから送られたトラックバックは自動的に拒否されます。悪しからずご了承ください。
また、このエントリと全然関係の無い内容のページからのトラックバックは、アタシ的な判断で勝手に削除します。これも又、ご了承くださいマセ。
■このエントリーのトラックバックURL ≫ http://www.nagarazoku.com/mvt/mt-tb.cgi/381