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2005年07月25日
【
半世紀後のLexus 】
トヨタ自動車が打ち立てているLexus戦略にかなり懐疑的だ。市場の二極化に応えるために、従来より高級なLexusブランドを定着させるべく奔走している様子が伺えるが、果たして本当に必要な行為なのだろうか。上っ面を追いかける事が、本当に将来の結果に結びつくのか?
確固たるトヨタ・スピリットがその根底に根付いていれば、バッヂやエンブレムを変える必要は無いのではないか。確かにラグジュアリーなサロンでの接客応対や、高級感漂うダイレクトメールは一時的にはウケが良いかもしれない。しかしターゲット層の胸の奥には、常に他の選択肢がある事を見落としていないだろうか。Lexusブランドは米国においてある一定の認知を得た、それは事実だ。彼の地ではTOYOTAとは異なる、最上の日本車がLexusだ。しかし彼らの車に対する感覚は日本人のそれとは大きく異なる。なぜなら、彼らにとって日本車は「外車」であり、その中でもLexusはステータスを示す高級車としてのイメージがあるから。そしてそんなイメージが根付いた米国でも、ブランドと言う点では日本と同様にポルシェやBMWやベンツのポジショニングとLexusのそれは全く別物なのだ。
日本ではLexusはやはり日本車でしかない。最高級品質だからといって冠だけを変えられても困るような気がする。セルシオを買うなら、いままで通りトヨタの販売店で気心の知れた営業担当を通じて買った方が安心できる。中途半端な「おもてなし」感覚はいらない。それはかえって顧客との距離を置くことになるのではないだろうか。アタシにはそんな気がする。
特別なチャネルを通し販売されるということは、そこに必要となる販売経費も気になる。どこかから捻出しなければならないから、当然商品の販売価格に上乗せとなる。実質的にクルマが車としての機能を提供する以外の費用だ。日本人が一番苦手とする分野の勘定科目だとも思える。その費用があれば、もっと良いモノ作りが可能ではないかとも思える。だとしたら、本末転倒なハナシだ。今の販売チャネルのどこに不足があるのか?
半世紀後のLexusブランドの姿を見てみたい。
その時、本当にコンセプトどおりにLexusブランドが根ざしていれば、日本も様変わりしたものだとアタシは嘆くだろう。モノ作りの優等生に取り立てて好感を抱いていたワケではないが、厚化粧の優等生など虫唾が走ってしまう。
|by Nagarazoku : 10:51|コメント (0)|トラックバック (0)|
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