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2005年05月01日
【
安心と安全を得るための責任 】
講談社の元取締役である鈴木富夫氏がゴルフ場でキャッシュカードをスキミングされ、偽造カードによって受けた約3,200万円の被害への訴えに対し、先の4月26日、東京三菱と三井住友の両行が全額返還することで和解が成立した。全額返還と言うのは果たして良い事例になるのだろうか。このハナシを耳にしてからずっと気になっている。
同氏がゴルフ場でスキミングに遭ったのは2004年の3月。2000年前後からこの手口でカードを偽造する犯罪が各国で起こっており、メディアで取り上げられていたはずだ。昨年の春であれば、この手の犯罪に対してしかるべき自己防衛策を講じておくことは社会人としての常識となっていたハズである。
簡単に偽造カードが作れてしまうのはカードの構造上仕方ないとしても、この点には金融機関側に非があり、改善が必要だろう。解決策としてバイオメトリクスを取り入れられる傾向にあるが、それによって「改善」はできるが、完璧はありえないと言うコトを利用者に伝える責任が銀行側にある。広告などを見ているとあまりにも完璧を謳いすぎだ。まぁいい、本筋から逸れるのでこの点の是非については今は言及を避ける。
件の鈴木氏は「友人で作家の柳田邦男氏が事件を題材に執筆活動をしたことが大きな世論をまき起こし、銀行側が責任を認める流れを作った」としているが、キャッシュカードの暗証番号に誕生日を使い、ゴルフ場の貴重品ボックスの番号も同じものを使っていたと言う。過失割合を引き合いに出すのは情が無いと批判を受けるかも知れないが、一考の余地はあるはずだ。果たしてこのケースを100対0と捉えて良いものか?(フツーの損保の火新損調部ならヒャク・ゼロは認めんだろう)
相手の非を指摘するのであれば、自らの非もなんらかのカタチで認めるべきではないのか?
そしてアタシが最も気にしているのは、いま訴えを申し立てている同様のケースの全ての被害者が、全て同等の補償を受けることができるかと言う点。負担や負荷が発生せずに補償できるのであれば、それはそれで良いと思うが(そんなワケが無いのだが)。今回銀行側が和解に応じたのが、著名人とのつながりを持つ特定の層であり一定額以上の預貯金を持つ者だったからで無いことを願いたい。
鈴木富夫氏は訴訟を起こした際「一般の人なら弁護士を探すだけでも大変だし、着手金など金もかかるし、精神的負担にもなる。僕の訴訟は和解するにしても、被害に遭ったほかの人たちも同じように救済されるようにしたい」とコメントしている。氏のキモチが今でもそうであるなら、せっかく全額返還が成立したワケだし、社会へ還元する意味もこめ他の集団提訴への手助けに一役買って出てもらいたいと思っていたりもする。講談社と柳田邦男氏がバックに付けば、他の被害者の方々も心強いではないか。
主要銀行は、カードの盗難や偽造でこれまでに行ってきた預金者への個別補償について明らかにしていないが、「被害者保護」と言う点で利用者に対して好感を与えることができる情報を公明正大に伝えないあたりが、なんとなく嫌ぁ~なニオイがしないでもない。声のデカイ人、あんまり関わりたくない人、政治的に圧力をかけられる人脈を持つ人、財力のある人などへ銀行さんが媚へつらうのはアタリマエなだけに、余計にプンプンと匂いがする。
先にちょっと触れたが、不正に預金が引き出されそれを補償するのに、誰の負担にもならないワケが無い。どのような勘定でマイナスをどこから捻出するのか、銀行間でそのためのプール金を用意し周到に運用しているのか、保険を利用しているのかアタシは知らないが、無から有は作りだせない。マイナスの埋め合わせはやはりどこか負担や負荷が生じているはず。大ないり小なりそのツケは、行き着くところ銀行の利用者にもまわってくるハズ。そのコトが気がかりだ。
銀行側の肩を持つ気はさらさら無い。しかし安全・安心を得るタメの「努力」や「気配り」を疎かにするのもどうかと思う。少なくともその「努力」や「気配り」は、サービスや仕組みを利用する側の「責任」だと思うのだが。
ナンでもカンでも企業や組織側が「やってくれる」時代はとっくに過ぎてる。安全や安心がタダだった時代もとっくに過ぎてる。そのコトを忘れてはいけない。忘れていれば自分に火の粉が降りかかって来るコトもあるだろうし、みんなが忘れたままだと、やがてその軋轢が大きな社会問題となって表出する。尽きるところ、時代の流れを生み出しているのは私たち自身なのだから。
P.S.
「軋轢が大きな社会問題となって表出する」と書いたが、たとえば、先日のJR福知山線の事故のこともそうだと思う。非難されるかも知れないが、あえて書く。
あの事故はJR西日本の上層部に「大きな」問題があったコトは確かだ。しかし遅れを取り戻すための速度超過が日常的に行われており、その事は利用者側の間でも常識化していたという。常識化して良いことだったのだろうか。本来、ダイヤ編成は安全を考慮した運行速度で組まれているはずだ。遅れを取り戻すと言うコトでムリな速度を出しているのではないかと誰も疑問に思わなかったのだろうか。そのことに対する危機感はなかったのだろうか。企業や組織に任せておけば安心だったのだろうか。誰もその事を問わなかったのだろうか。一人ひとりが気にかけておかなくて良いコトだったのだろうか。何度も書くが、安心や安全がタダで手に入る時代は過ぎ去ったのだ。
「運転荒っぽいで、あんまりムリせんといてや」と普段から利用者がクチにしていれば、あの事故も防げたかもしれない。
安心や安全を得るためには、誰もが意識して襟元を正し牽制しあうことが必要じゃないのかと思う。「便利」や「速さ」謳われたとき、それがどのような要素で成り立っているのか検証する責任が消費者にもある。
謳い文句はいつの時代も艶やかに彩られ、仮の姿で利用者を魅了するために創られていると言うことを決して忘れてはならない。
|by Nagarazoku : 00:03|コメント (0)|トラックバック (0)|
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