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今日の東京は名実共に春らしくて良い。まぁるい日差しだな。
この季節になると一匹の黒猫のコトを思い出す。飼っていたのでもなく、飼われていたのでもなく、ただ当時住んでいた昔ながらの木造アパートに居ついてた子猫のコトだ。残念なことに、こんな春の日に車に跳ねられて、逝ってしまった。
子供の頃、あばら家だったが一軒家に住んでいたので動物を飼うとこに障害がなく、縁日でヒヨコを釣ってきちゃニワトリにまで育ててみたり、イヌをどこかから貰ってきては役に立たない番犬もどきに育ててみたり、庭に池を掘り鯉を飼って野良猫に食われてみたり、あげくのハテにアヒルまで育ててきた。この他にもカナヘビや甲虫の類は数知れず。こう書いてみるとケッコウな動物三昧だな…。
しかし、それも中学生になるまで。そのあとはついぞ動物に縁がない生活を過ごしてた。成人して素行の悪さに家を叩き出されて、移り住んだのが古い木造アパート。そんな頃にヒョッコリと現われたのが件の黒猫だ。そのころ、早朝のアルバイトから帰るといつもアパートの上がり框(もう死語だな…)で、ポツネンっと居眠りをカマしてたのがこの黒い子猫。
最初の頃は互いに無視してたが、何度かカオを合わせるうちに会釈では無いが、目で挨拶をするようになった。おかしな表現だが、この言い方が正しいような気がする。たまに、二階にあるアタシの部屋の戸口まで、ご機嫌を伺いを来るようにもなった。アパートのほかの住人とも友好な関係を確立しているらしく、中立を保ちつつ、ダレにも怒られず追い出されず、ゴハンの残り物や、時には誰かからネコ缶のゴチソウなどを頂いてる様子だった。
アタシも時々、昼のゴハンを半分にわけて、その辺にあったカツオパックなんぞをふりかけてやり、一緒に飯を食うようになった。食った後は互いに大の字になって昼寝なんぞをした。なつくでもなく、嫌うでもなく。黒猫は賢いらしいが、この子もご多分にもれず世渡りが上手かったのだろう。「動物との距離はこういうのが良いなぁ」っと、意識をしだしたのもコノ頃だ。互いに干渉せず、たまぁに助け合い。フイッと居なくなったかと思うと、ヒョコリと帰ってきてたり。
今日みたいな天気の良い春の日だった。しばらく見ないなと思ってたら、朝のバイトの帰り道、水の干上がった側溝の中に骸を見つけた。たぶん車に跳ねられたのだろう。
部屋までタオルを取りに帰り、小さな亡骸を拾い上げてタオルに包んで、近くの川の土手の縁に埋めてやった。情が薄いと言われるかも知れんが、悲しさとか、寂しさとか、そういったモノはあまり感じなかった。思ったのは「短い命だったけど、好きに生きて、皆に愛されててよかったな」っと、そういうコトだ。ニンゲンだって生き抜いていくには厳しい世の中だ。私達が日ごろ目にしている野良猫だって、並大抵じゃあるまい。野良猫も野良犬も、飼い猫だって家猫だって、飼い犬だって座敷犬だって良いとは思うケド、やっぱりあんな風に、ダレに気兼ねすることなく、囚われることなく、飄々と生きられたら何よりもまして素敵だと思う。生き物は元来、私達の知らない暗黙のルールの中で、みんな自由だと思うし。
毎年、春のこんな日になると決まって思い出すのは、そんなコトだ。
|by Nagarazoku : 10:02|コメント (0)|